ウソ日記

ない。ある。

ユタの悲劇

 ドヴォルザークといえば羊羹ですが、では羊羹といえばドヴォルザークかというとそれはやはり違うのです。なぜならば羊羹は他にも水、抹茶、栗などの多くの特性を持っているからです。羊羹の中でドヴォルザークが占める割合というのは相当に小さいのです。そして、そのことこそが、ドヴォルザークの中の羊羹に対するモノを、あれほどまでに膨らませてしまったのです。

 本名アントニオ・セルヒオ・ホセ・ドヴォルザークは1969年、北カリフォルニアのツミスという小さな町で生まれました。曽々祖父はあの、交響曲新世界より」を作曲したアントニン・ドヴォルザーク。もっとも、彼は生涯そのことを知らなかったといわれます。
 もちろん現在では、ドヴォルザークといえば彼の曽々祖父ではなく、彼自身の事を指してしまうのですが。
 ドヴォルザークが始めて羊羹と出会ったのは、おそらく1979年から1980年にかけての冬のことだと思われます。当時北サンフランシスコではニホンブームの流行を受けて、多くの日本の食品が店頭に並び始めていました。1979年5月、サンフランシスコにアメリカ初の羊羹専門店「kurageya」が誕生します。「kurageya」誕生以前の北カリフォルニア、それも辺鄙な田舎町で羊羹と遭遇することはおそらく相当難しいことだったと思われますし、ドヴォルザークがその年の冬にサンフランシスコに出かけたという、確かな記録が市の交通局に残っています。彼の父親が運転した車が事故を起こし、彼の名前が同乗者として記録されているのです。
 確かなことは何も分かりません。「kurageya」の当時の記録も、一つとして確実なことを語りません。しかし、私は強い確信を持って、彼がこのとき羊羹とのファーストコンタクトを果たしたと考えています。なぜなら、公式には認められていませんが、彼のおこした最初の事件と思われる現象(第二章で語られた「クエスチョンマーク歯形事件」のことです)が、その冬の終わり、1970年2月23日に発生しているからです。

 (中略)

 そして、彼はその20年後、羊羹とソルトレイクシティーの全人口80万人を道連れにこの地上から消え去りました。良質の羊羹用寒天の生産地として知られる日本の諏訪盆地では、その同時刻(諏訪は夜でした)、野外に干された寒天が緑黄色に発光するのが観測されたということです。燐光を翻し、空に上っていったということです。