ウソ日記

ない。ある。

どこかへ

「どこかへ行っちゃったまま、帰ってきたくないなあ。」
 トシ子さんは呟きました。五月の晴れた日のことです。雲がひとつもない、青い青い空の日です。トシ子さんは右手で左手をつかんでぎゅっと伸びをしました。屋根の黒い瓦はそろそろ素足では厳しい温度になっています。
 トシ子さんには兄が二人と姉が一人、弟が一人います。一番上のお兄さんは、ネパールの工房で織物の修行をしています。彼は五年前の雨の降る冬の日に、日本を出て行ったのでした。2番目のお兄さんは証券会社に勤めています。富士山の麓に本社のある中国系の企業だといいます。蛇頭とのつながりがあるとかないとか。去年の暮れから連絡がありません。お姉さんはつい先日、東京のサティアンから八戸のサティアンに移ったみたいです。重要な幹部であるとして公安に目をつけられているという話を、トシ子さんは姉の友人であった良子さんから聞きました。お姉さんは、3年前の、蜂がぶんぶんと玄関先で煩かった夏の日、200万円と共に出家したのでした。弟は、樹海から帰ってきた十年前から白い壁の向こうです。
 つまり、どこへも行ってないのはトシ子さんだけだったのです。トシ子さんがこの郡から出たのは、子供のときの夏休みの家族旅行と、小学校と中学校の社会見学の時だけでした。高校の修学旅行は、熱を出してしまって行けなかったのです。
 トシ子さんはお茶を良く飲む人です。
 トシ子さんは冬菜の漬物が大好きです。先日、隣の家のおばあちゃんに冬菜の育て方を教わりました。今年の冬には、いくらか作ってみようかと思っています。トシ子さんはもう一度呟きます。
「どこかに行っちゃいたいなあ。」
 トシ子さんはゆっくりと立ち上がって、梯子を伝って屋根から下ります。午後からはタマネギを収穫しなければなりません。