ウソ日記

ない。ある。

ステップ

 シトラスのシロップ瓶を片手に、貝原ゆき子は草原を行く。コンポーネントを使い込んだ建築家たちがそれぞれの技を競い合った時代の、その構造物が遠くに見える。一瞬、空気が揺らいで、距離感が分からなくなる。まるで、それらが、すぐ目の前にあるお菓子のお城みたいな、そんな錯覚に襲われる。もちろんそうではないことをゆき子は知っている。あの構造物ははるか160km向こう、アペニイの領土を越え、山脈の向こう側にあるのだ。プツプツと肌を刺すのはイラクサ、ズボン生地を抜けるしなやかな棘。
 フレーバーは大切なのだよと教えてくれたのは彼女の祖父だった。強さには強さのフレーバーを、弱さには弱さのフレーバーを。丘ですごす山羊飼いとしての日々を、彼女と、彼女の祖父は連ね歌を紡ぎながら過ごした。その連ね歌は数と操作でできていた。彼女の祖父がいくつかの数を奏でる。彼女がいくつかの数を奏でる。彼女の祖父が操作と幾つかの付随する数を与え、彼女はそこから導き出される数の群れと操作を返す。数は列を作って操作を待ち、最初に与えられたいくつかの数を変更させてゆく。そうやって物語が立ち現れる。
 あるときの物語は不思議な塔を巡るお話、あるときの物語は学校の旅行のお話。炎を操る鶏と、盾を持った遍歴者と、シンガロッタの末裔と。いくつかの物語は凄惨で、いくつかの物語は酸鼻を極め、いくつかの物語は暖かい。貝原ゆき子は考える。この物語たちはどこから来たのか。この物語たちは、本当にあった事なのだろうか。もちろん、貝原ゆき子のある部分は違うと答える。フレーバーも初期のいくつかの数も、あるいはちょとした初期の操作も、彼女が彼女の祖父が考えて与えたものだから。しかしもう一方は、こうも考える。立ち現れた物語は、明らかに私たちが与えたものよりも桁外れに大きい。その大きさはどこから来たのか。私たちが紡ぐことよるものか。しかしこの紡ぐことというのはひどく一般的なものだ。誰が紡いでも、お話は同じ様に大きくなるだろう。ではこの紡ぐこと、その一般的な仕来りの中に、お話は潜んでいるのだろうか。昔おきたお話は、忘れられないように、紡ぐことの中に逃げ込んで生き延びようとしたのだろうか。
貝原ゆき子は花を摘む。白いハウサンカ、赤いファニファール、シュウ酸の強いケイトー、それらを摘んですぐさま、シロップに漬ける。鮮度が大事だ。そうやって花のフレーバーを保存して、毎月11日に開かれる市に売りに行く。